《聞き物語り》
◉買取現場で聴いた、少しだけ昔の話の書き留め帳。*時折更新
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2017年2月13日 十日町
90少し手前のおじいちゃんと、3歳年下のおばあちゃん
終戦の年は中学三年生だった。
その頃は、宿に泊まる時に
一人米5合を持参する決まりで、
農家の俺たちは良くても、
街場の子はその米を出せない。
そんなことで
修学旅行が中止になった。
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学校は山間の家から3キロ近く
歩いた場所。
当時は地下足袋が履物。
(雨の日には歯の高い下駄を履いた)
革靴なんて履いてたら
東京の人、都会の人と言われる。
みんな、服はボロボロ、
あるだけのハギレを縫い付けて、
穴を塞いでいたくらい。
毎日、砂利道なんかを歩くと
足袋の足裏の方が弱くなってくる。
反対に、
毎日山の畑へ通っていた
姉たちの足袋は、
地面は柔らかいけれど
下草なんかに削られて
上の方が破けてくる。
そうなったら交換して
履いていた。
そこまでして
物を大切にしたから、
ずっと昔のものを
捨てられなかった。
家をリフォームする
ということになって、
やっと終活も平行しよう
と思えたけれど、
そうでもなければ、何もかも
ずっと取っておいただろう。
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戦争の最後の方は
本当にひもじくて、
みんな痩せこけていた。
(山には山菜や木の実など、
食べ物が豊富だったのでは?)
そんなのは葉っぱでしょう。
栄養が足りなくて、
おやつの時間も
お茶とせいぜい漬物。
戦後、ここにも
進駐軍の視察団?がやってきて、
日系二世の小柄な
アメリカ人も居た。
俺たちは背中もお尻も
肉がないからまっすぐ
ぺったんこなのに、
二世で少し小さな彼でも
肉付きが良くて、
お尻なんか
プリプリしているんだ。
こんなの、日本が
勝てるわけないじゃないか
と思った。
●
戦争は悲惨だった。
あんなのもう絶対したらいけない。
島の一つや二つやって
どうにかなるなら
それでもいい、
という気持ちでいないと
また同じことを繰り返してしまう。